Rebuild myself

13年くらい温めてきた過食嘔吐と向き合っています。

父が

余命宣告を受けました。

 

とはいえ、義理の父です。

お互いバツイチだった母と義理の父。

私が高校卒業と同時に籍を入れ

そこから10年を目前にしての

余命宣告でした。

 

私は卒業と同時に一人暮らしを始めたので

義理の父とは年に1度会えば良い方でした。

 

お父さん、と

呼んだことは、まだありません。

話はするけれど

なんとなくお互いに距離感はありました。

 

そんな感じで

なかなか会う機会もそんなになかったから、

距離は未だに縮まりきらず、

それでも、母が幸せそうだから

母を幸せにしてくれている父に

私は本当に感謝をしていましたし、

幸せな家族の一員として居られることに

帰省するたび、私も幸せを感じていました。

 

そこでは幸せを演じる、と言いますか

「幸せな家庭」と言う舞台が母の家に行くと用意されているので

私もその一員として振る舞う

そんな感覚だったかもしれません。

 

それでも、なんとなく幸せでした。

そして、自慢でした。

 

母と私は10年ほど

母子家庭として暮らして居ました。

 

父親がいないのが当たり前。

家にはいつも誰もいない。

帰宅はいつも20時過ぎ。

それも当たり前。

 

ご飯は母がいつも

何か作って居てくれました。

帰ると鍋に夕食が置いてありましたし

お弁当も毎日作ってくれて居ました。

 

それも当たり前の光景でした。

 

家はいつも綺麗でした。

ゴミの日の朝は、いつも掃除機をかけ、

床を磨く母を見ながら

私は食パンをかじっていました。

 

夜、たまに母の部屋を覗くと

レシートの山に埋もれてうたた寝をする母がいました。

 

母はいつも、茶色や黒の服を着ていました。

 

週末は家事をして、献立を立て

一緒に買い物に行き

帰ると母はうたた寝をして

夜ご飯を作り2人で食べました。

 

全部当たり前の光景でした。

 

ある高校一年生の日、

私は母に、高校卒業したら一人暮らしをすると言いました。

だから、そろそろ再婚を考えてはどうかと

結婚相談所に行くことを提案しました。

 

母はその通りにしました。

 

ある日母が、ピンク色の服を買ってきました。

 

お付き合いしている人に

ピンクが似合うと言われたから買ってみたのだ、と少し恥ずかしそうに、でも楽しそうに言っていました。

 

それは、当たり前じゃない光景でした。

 

週末母はデートに行くようになりました。

夜ご飯は私が自分で作って食べました。

 

クリスマスも母はデートで

私はアルバイトに行き、一人で夕食を作って食べました。

 

少し母を恨みました。

 

進学が決まり一人暮らしをすることに。

義理の父は家具を全て買ってくれました。

 

一人暮らしを始めてしばらくは

全く寂しさはなく

とても充実した毎日でした。

 

新しい土地で

新しい友達がいて

新しいことを学び

新しい仕事につく。

 

新しい恋をして

新しい服を着て

見たことない場所に行く。

 

何一つ当たり前がない世界。

 

毎日が刺激的で

両親のことなど

眼中にありませんでした。