Rebuild myself

13年くらい温めてきた過食嘔吐と向き合っています。

戦うのが普通って感覚を理解した先に

わたしは平凡な日々を送っているけれど、

 

ウクライナとロシアとで戦争が起きている。

その事実をわたしは知っている。

 

だけどやっぱり他人事で、

自分の生活にはなんの支障もなく

普通に仕事をして、ご飯を食べ、余暇を過ごして眠りにつく。

 

テレビでニュースを見ても

遠く離れた国での出来事なんだと深く考えずにいる。

それって良くないことなのだろうか。

知っているのに、危機感を覚えないことは良くないことなのだろうか。

危機意識がなく、ぼーっと生きていることは

良くないことなのだろうか。

 

戦争や、災害、会社の倒産など、

自分の裁量ではどうにもならないことに関して

興味を持って情報収集をして、

緊急時に備えておく。

 

興味がないのだと思う。

だから知ろうとしないのだと思う。

それは、良くないことなのか?

そうやって、すこし考え込んだ昨日の夜。

 

いつか死ぬ。

死にたくないとは、思わない。

いつか死ぬ。

 

もし戦争が日本で起きたら

今のような精神状態ではいられないだろう。

もし地震が自分の住む場所で起きたら

もしナイフで刺されたら

年老いて寝たきりになってしまったら

その時、ひとりぼっちだったら、、、

 

これから起こるかも知れない、最悪の事態を

考え始めれば、キリがない。

想像したら不安になる。

起こりうる危機に対応出来るように

準備をしておくべきなのかも知れない。

 

そういう価値観もあると思う。

けれどわたしは違う。

わたしにとっての幸せは

ちょっと違う。

 

幸福度を縦軸、時間を横軸として

人生をグラフに描く。

幸福度を構成するのが価値観で

それは人によって違う。

価値観は一つではない。

レーダーチャートにしてみたときに

尖った部分があれば、それがその人の価値観の特徴で、それが個性としてあらゆる判断の際に現れる。

尖った部分のない人は

そのバランスの良さ自体が特徴となる。

 

これまでのわたしの人生の描き方は、点の積み重ねだった。

点だけをみているから、前後のつながりを考慮しないので、線で繋いだときのグラフはガタガタだった。

 

今、ひきたい線のために点を打ってから線を引くようにしてから、

とても綺麗なグラフになったし、思ったような軌道を描けるようになってきた。

 

その反面、その綺麗なグラフが、外的要因に揺さぶられて大きく軌道から外れることもある。

それはそれ、と思えるのは

これまでの人生がその繰り返しで

ガタガタのグラフに慣れているからなのかも知れない。

突然地震が起こっても、

 

「生きていて、またゼロからやり直せるなら、なんとかなるはず」

 

少なくとも体が動くならば。

心の健康の保ち方は、もう身につけたから。

 

今日の時間は、1日ある。明日も1日ある。

それがつながって1週間。1ヶ月、半年、一年になっていく。

 

何もなく、平和に時を過ごせたことを

ときには振り返って、

それって特別幸せなことなんだと

幸せに過ごさせてくれた環境への感謝の気持ちを味わう。


そうすることで、

困っている人が居れば、気づくことができるだけのゆとりを自然と持てる。

 

そんなときに差し伸べた手は、

「優しい」と表現できるのだと思う。

 

わたしは優しくありたい。

それがわたしの価値観を支える柱。

 

平和が当たり前になっていたけれど

当たり前じゃないんだと、気づいたときに生まれたこの価値観をこれからも大切にしたい。

 

「なんで戦わなくちゃ、いけないのだろう。」

 

こっちにその気がなくっても

相手から攻撃を受ければ

こちらも応戦しないとやられてしまう。

理解できる。

確かに必要なことだと思う。

 

わたしはそんな、たくましく強く戦う人たちの支えとなるような役割で

支えていけたらいいなと思う。

 

仕事行ってきます。